キングダムに学ぶグローバルとインターナショナルの違い
こんにちは、さんちゃんです。
本日は、漫画に学ぶシリーズ第9弾、キングダムに学ぶ「グローバル」と「インターナショナル」の違いです。
グローバルとインターナショナルの違いとは?
両者はよく似た用語ですが、グローバルとインターナショナルの違いはどこにあるのでしょうか。
goo辞書(デジタル大辞林)をみると、
グローバル・・・世界的な規模であるさま。また、全体を覆うさま。包括的。「グローバルな視点」
インターナショナル・・・国際間の。国際的。「インターナショナルな大会」
とあります。
ほとんど違いがないように思われますが、両者には決定的な違いがあります。
その違いについて、秦王・嬴政(えいせい)と、彼に論争を吹っ掛けた李牧の発言から迫ります。
結論を先取りすると、中華統一を目指す嬴政は、「グローバル」の視点から国家を語っています。
一方、嬴政と論争を繰り広げた、秦国相国・呂不韋(りょふい)、斉国国王・王建(おうけん)、趙国宰相・李牧(りぼく)は「インターナショナル」の視点から国家を語っています。
ここでは、李牧との論争を事例にグローバルとインターナショナルの違いについて考えていきます。
なお、呂不韋や王建との論争については過去ブログを参照ください。
嬴政vs呂不韋:漫画「キングダム」に学ぶ経済学! 貨幣制度と資本主義の本質に迫る
嬴政vs王建:漫画「キングダム」に学ぶ法律学! 権利と義務の考え方
嬴政vs李牧~中華統一という思想の本質
李牧:七国同盟を提案、インターナショナルの視点
『キングダム』第45巻において、斉国国王・王建(おうけん)、趙国宰相・李牧が秦国の都・咸陽(かんよう)に来朝します。
王建との会談で法治国家を説いた嬴政は、その足で李牧が待つ本殿に向かいます。
そこで、李牧は秦王・嬴政に上奏します。
長文になりますが、重要なキーワードがちりばめられていますのでそのまま引用します。
李牧「秦王様どうか手遅れになる前に中華統一の夢をあきらめて頂きたい 大王様 私は正直あなたのことを心から尊敬しております 邯鄲(※かんたん。趙国の首都)で生まれた不幸をはねのけ 秦の玉座につき 蕞(さい)では自ら死地に入り民兵を奮わせ奇跡を起こされた… そして今 この世から戦を無くすために国を一つにしようと志されている ―――本当ならあなたのような王にお仕えしたかった」
嬴政「……今のは誤解を招くぞ 李牧」
李牧「…… しかしお仕えしていたらやはり中華統一を全力でお止めしていたでしょう 国の存亡に関わる最終局面に近づく時その国は想像以上の力を発揮して抵抗してきます その力の強さは合従軍をはねのけた秦の方々が一番よく知るところのはずです つまりそこから先は正に血で血を洗う凄惨な戦が待っています 統一後の理想の世などそこで倒されていく者達に何の慰みになりましょう 流れる血も大量の死も紛れもなく悲劇そのものです! 大王様 私も常日頃から”戦の根絶”を心から願う者です そして必ず他の五国にも同じ考えを持つ者達がいます ならば大王はそれらと剣を交えるのではなく手を取り合うべきではありませぬか 手を取り合って中華の平和の道を…
昌平君(※秦国丞相。丞相は昌平君と昌文君の2名がいる)「ない 統一以外に道はない」
李牧「ある 大王様 今すぐ六国に伝文を送り六国の王達を咸陽(かんよう)へ集結させてください!」
嬴政「…… 盟か」
李牧「…… はい 『七国同盟』です」
李牧の主張は、「中華統一をあきらめて頂きたい」、そして「剣ではなく手を取り合う七国の同盟を結びたい」というものです。嬴政の生い立ちや、実際に戦った蕞の話を持ち出し、尊敬の念を表明していますし、また、李牧自身も戦の根絶を願う人間であるとしています。直前まで戦っていた敵国の首都に乗り込んでの上奏ですから、李牧は李牧なりに平和な世の中をどう構築するかを深く考えていることがわかります。
そして、この李牧が提示した「七国同盟」という考え方が、まさにインターナショナルの視点といえます。
7国それぞれの王国”national”としての存在を認めながら、”inter-”つまり、中間・相互関係を良好にしようという考え方です。
嬴政:中華統一の真意、グローバルな視点
一方、嬴政は李牧とは似て非なる視点から国家を考えています。
李牧が七国同盟を提案すると秦国重臣たちがざわめきます。李牧の理想を一通り聞いたのち、嬴政は激昂して李牧に言い放ちます。
秦国重臣「し 七国同盟!?」
昌文君(※もう一人の秦国丞相)「それこそ無理だ 三国同盟でもそれぞれかみ合わず実現が困難なものを七国で同時になど… そんなものは」
李牧「単純にすればよい 目的は”中華の恒久的平和” ならば七国が守る盟約は唯一つ 他国との戦争を一切禁ず この禁を破り国境を侵す国があった場合――― すみやかに残りの六国でその一国を攻め滅ぼすものとする この盟の縛りに七王全員が刻印さえすれば無益な血を流さずとも中華から戦は無くなります!」
嬴政「そんなものでは無くならぬ! たしかに今…我々と李牧 お前が手を結び知恵を出し合い他の六王を説得し皆が自国の利を後回しにする七国同盟を作ればこの中華より戦は消えるであろう だが百年後 俺もお前もいなくなった中華七国がその盟を守っているという保証がどこにある!! 李牧 時の流れと共にいずれかの国が興隆し偶然そこに邪な考えを持つ王と臣が重なれば間違いなく盟など簡単に砕けるぞ そんな不完全なものを残して平和を成したと言うのかお前は その失敗を中華は何度も経験してきているではないか… 根本を変えるしかないのだ…」
李牧「綺麗な言葉にすりかえればそれですむと思っているのか 理想のためにすりつぶれろという暴論を六国が受け止めるとでも思っているのか」
嬴政「受け止められるなど最初から思ってはいない この戦で中華を悲劇が覆うことなど百も承知だ! だがそれをやる 綺麗事など言う気はない! よく聞け李牧と趙の臣達よ 秦は武力を以って趙を含む六国全てを攻め滅ぼし中華を統一する!! 血を恐れるならお前達は今すぐ発ち帰り趙王に完全降伏を上奏するがいい!」
嬴政と李牧は共に平和を目指しています。李牧の考え方がインターナショナルな視点であったのに対し、嬴政はグローバルな視点で国家を考えています。
そのため、七国同盟による一時の平和を認めつつも、それでは本質は変わらないとしています。そして「根本を変えなければならない」と。それが七国を一国として機能させるための「中華統一」という考え方につながります。
そして王建との会談でもありましたが、嬴政は、秦が六国を支配するというよりも秦を含めた七国が新たな国家を形成する、その支配力は法律の力を最大限とする法治国家の創立という壮大な夢を持っています(前述の過去ブロブ参照)。
残念ながらここでの李牧に対する発言では、秦が六国の支配者として君臨するかのようなニュアンスになっていますが…。
まとめると、互いの独立性を認めつつ、相互関係をどのように調整するかという考え方がインターナショナルであり、ひとつの枠組みのなかで共通の文化形成を構築しようとする考え方がグローバルということになります。
現代におけるグローバルとインターナショナル
現代においても、グローバルとインターナショナルは、あるときは同一の概念のように、またあるときはまったく異なる概念として語られています。しかも無意識のうちに分けていることも少なくありません。
今後ますます国際社会の進展にともない各国の首脳による複雑なかじ取りを考えると、グローバルとインターナショナルの違いについてはしっかり理解したうえで政治や経済の議論をしないとかみ合わない危険性があります。
日本でも少し歴史を振り返ると、たとえば戦国時代はインターナショナルな時代だったと言えます。その後、江戸、明治を経てひとつの国家として文化形成が行われます。そのため現代はグローバル(実質的にはナショナルですがインターナショナルの対比として)の時代と言えます。
ただし、日本という国家を基準に考える際は、他の国家を考える必要がでてきます。
たとえばアメリカは合衆国ですから、インターナショナルの要素があります(法律も州によって州法が制定されており運用もかなりの違いがあります)。
中国は中華思想とも言われるようにグローバルな考え方に立脚して物事をとらえているように見受けられます。
ヨーロッパの各国はそれぞれ多様です。たとえばEUの形成、そしてイギリスの脱退などインターナショナルな視点とグローバルな視点と双方が入り乱れている感じです。
そして国際社会においては日本はナショナルの意識が強く(日本と外国、日本人と外国人とを意識的・無意識的に分けて考える)、グローバルというよりもインターナショナルな考え方に立脚しています。
また、何について議論するかによっても両者の視点は異なり、政治や法律はインターナショナルの要素が色濃く、経済やビジネスはグローバルの要素が色濃くあらわれます。
21世紀の生き方や働き方を考えるにあたり、グローバルとインターナショナルの違いを理解したうえで、現状と将来像とを俯瞰しながら国際社会における日本や自分自身の立ち位置を明確にしておくことは極めて重要になってきます。