野村克也監督死去、84歳 合掌
こんにちは、さんちゃんです。
2月11日、建国記念日の朝、ニュース速報が入ってきました。
戦後のプロ野球を選手として初めての三冠王、監督としてID野球を浸透させ、そのときの教え子たちが続々と監督やコーチとして日本球界を支えている球界で知らない人はいない大人物、野村克也さんが亡くなりました。
野村克也監督死去・・・
プロ野球の南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野村克也氏が死去したことが11日、分かった。84歳だった。
現役時代は南海、ロッテ、西武でプレー。契約金なしのテスト生からはい上がり、通算3017試合に出場した。日本歴代2位の2901安打をマーク。8年連続の本塁打王、1965年には捕手として史上初めて戦後初の三冠王にも輝くなど、輝かしい成績を残した。
名捕手としても日本球界の発展に貢献した。鋭い観察眼で相手の弱点をつき、投手の長所を生かす配球を徹底的に研究。打者への「ささやき戦術」で集中力もかき乱すなど、勝つためにあらゆる手段を駆使した。
出所)「野村克也氏が逝く 名捕手&名将が球界に残した功績」デイリースポーツ2020年2月11日配信
野球解説者を経て89年オフにヤクルト監督に就任。データを重視する「ID野球」を掲げてチームを鍛え、9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた。
ヤクルトでの実績を買われて98年オフ、三顧の礼で阪神監督に迎えられた。翌99年の春季キャンプでは、初日夜のミーティングで、自らが執筆した分厚い教本を全選手に配り「成功は結果であって、目的であってはならない」などの「ノムラの考え」を約1時間半にわたって講義。チームの意識改革に取り組んだ。また、広い甲子園で機動力を生かすため、赤星ら俊足の選手をそろえ「F1セブン」と命名するなど低迷期の阪神を変えようとしたが、結果は出ず3年連続最下位に終わった。
01年オフ、沙知代夫人の脱税問題が浮上し引責辞任。しかし、この3年間が03、05年の阪神リーグ制覇の礎をつくったともいわれる。
その後、社会人シダックスの監督を経て楽天監督を務め、09年に退団。現場を離れてからも評論家、球界のご意見番として各メディアでも活躍していた。
出所)「野村克也さん死去、84歳 名捕手、名将、名解説」日刊スポーツ2020年2月11日配信
選手としては無名の高卒捕手、テスト生として南海に入団。
その後、三冠王になるわ、34歳で選手兼監督となるわ、解説者として配球やヒットコースをズバズバ的中させるわ、監督して資金力の乏しいいわゆる弱小チームを日本一に導くわ、などなど誰もが認める最高の野球人だったのではないでしょうか。
昨年のヤクルト球団設立50周年イベントでは打席にも立っていたのに・・・
昨年7月に実施されたヤクルト球団設立50周年イベントでは、古田敦也さん、池山隆寛など教え子たちとともにバッターボックスに立ちました。
この打席が生涯最後の打席となるとは・・・。
今年に入ってからも1月には金田正一さんのお別れ会に出席し車椅子とはいえ元気な姿を見せていました。
あまりにも急すぎる逝去となりました。
現ヤクルト監督の高津臣吾監督や現ヤンキースの田中将大選手など教え子たち、選手時代のライバルであった王貞治さん、長嶋茂雄さん、張本勲さん、監督時代に日本一を争った常勝西武ライオンズの監督だった森祗晶さんなどたくさんの人からお悔やみの言葉が届くことになりました。
今年1月に収録していた「徹子の部屋」も12日に放送されました(私自身はまだ見ていませんが)。
本当に球界を代表する、そして日常生活、ビジネス、勝負事など生活全般における野村語録はこれからも生き続けるのではないでしょうか。
ちなみに、私が一番好きな野村語録は、
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
です。
この言葉をかみ締めながら、一日一日、一歩一歩、進んでいこうと思います。